ジャイアントパンダといえば、誰もが知っている動物園の人気者ですよね。
パンダが白黒でふわふわの毛皮に身にまとっていることや、竹を食べることを知らない人は少ないと思います。
ですが、いつ・どこで・どんなふうに発見されて、どのようにして今のような動物園の人気者になったのかは意外と知られていないのではないでしょうか?
この記事では、中国の山奥でひっそりと暮らしていたジャイアントパンダが人間に発見され、世界中の人々が知る存在になるまでの歴史を年表形式で分かりやすく解説します。
また、上野動物園やアドベンチャーワールド、王子動物園といった日本の動物園に初めてパンダが来日してから現在に至るまでの「パンダの日本史」もまとめました。
【世界史】パンダの歴史〜中国での発見から現在まで〜
ジャイアントパンダの生物としての歴史は長く、およそ800万年前にはすでにジャイアントパンダの祖先がいたことが化石調査から分かっているそうです。
それほど昔から存在していたにも関わらず、パンダが人間によって「発見」されて人間の歴史と交わるようになったのは、今からたったの160年ほど前のことです。
その後パンダの存在は急速に知れ渡り、珍しくて不思議で愛くるしい生き物として、生息地の中国だけでなく世界中から注目を集め、一躍して人気者になりました。
一方で、乱獲や環境破壊による生息数の減少なども経験しているパンダの歴史が持つのは、決して明るい側面ばかりではありません。
ここでは、そんなジャイアントパンダが発見されてから現在に至るまでの歴史を年表形式でご紹介します。
西暦 | できごと |
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1825 | ・新種の動物である「パンダ」(=のちのレッサーパンダ)が発見される。 |
1869 | ・フランス人宣教師のアルマン・ダヴィドが中国・四川の地元住民の家でパンダの毛皮を目撃。その後、地元猟師からパンダの死体を買い取り、毛皮をフランス・パリに送る。(ジャイアントパンダの「発見」) ※この「ジャイアントパンダ発見」から約100年にわたって、「ジャイアントパンダはレッサーパンダの仲間なのか、クマの仲間なのか論争」が繰り広げられていく。 |
1908 | ・イギリスの植物学者アーネスト・H・ウィルソンがパンダの生息地を探索したが見つけられなかった。 |
1914 | ・ワルター・ストッツナーをリーダーとするドイツ人グループが地元住民から生きた赤ちゃんパンダを買い取る(パンダはその後すぐに死亡) |
1916 | ・オーストラリアの宣教師ジェームズ・ヒューストン・エドガーがパンダらしき動物を目撃。 |
1921 | ・イギリスの探検家ジョージ・E・ペレイラがパンダを射殺するために中国・四川に3カ月滞在したが、目的を果たせなかった。 |
1929 | ・アメリカのルーズベルト兄弟が中国・四川でパンダを射殺。 ・アメリカのフィールド自然史博物館が中国西部の動物に関する10年間の調査プロジェクトへの資金拠出を決定。リーダーは、フロイド・タンジュール・スミス。 |
1930 | ・アメリカのフィールド自然史博物館でルーズベルト兄弟が手に入れたパンダの標本が展示される。 |
1931 | ・アメリカのフィラデルフィア自然科学アカデミー博物館が派遣したブルック・ドーラン、フーゴ・ヴァイゴルト、エルンスト・シェーファーが赤ちゃんパンダを射殺したほか、数頭の毛皮をアメリカに送る。 |
1934 | ・アメリカのアメリカ自然史博物館が資金援助した「セージ西中国探検隊」がパンダを射殺。 |
1935 | ・イギリスのコートニー・ブロックルハーストが自費遠征中にパンダを射殺。 ・同時期に「グリズウォルド=ハークネス・アジア探検隊」は「パンダを生け捕りにして中国から運び出す」という初めての目標を掲げて中国を探検するが失敗。 |
1936 | ・ルース・ハークネスが野生の赤ちゃんパンダ(「スーリン」と命名)を生きたまま捕獲し、アメリカに連れ帰ることに成功。 |
1937 | ・アメリカのブルックフィールド動物園でスーリンの展示がスタートして大盛況に。 |
1938 | ・ルース・ハークネスが新たに赤ちゃんパンダ(「ダイアナ」と名付けられ、のちに「梅梅(メイメイ)」に改名)を捕獲。 ・ブルックフィールド動物園でスーリンとメイメイの同時展示が始まったが、間もなくスーリンが急死。 ・アメリカ・ブロンクス動物園でもメスのパンダ「パンドーラ」を獲得。 ・アメリカのフロイド・タンジュール・スミスが6頭のパンダを中国から連れ出すことに成功。(うち1頭は輸送中に死亡。他の5頭は「ハッピー」「ドーピー」「グランピー」「グランマ」「ベイビー」と名付けられた) ・イギリスのロンドン動物園がグランピー、ドーピー、ベイビーを買い取り、中国の歴代王朝にちなんでそれぞれ「タン(唐)」「サン(宋)」「ミン(明)」に改名。 |
1941 | ・中国とアメリカの関係を強化する外交上の目的で中国政府からアメリカのブロンクス動物園に2頭のパンダ(「パンディー」と「パンダー」と命名)が贈られる。 |
1946 | ・中国がイギリスにパンダ1頭(「リェンホー(連合)」と命名)を贈る。 |
1957 | ・中国がソ連(モスクワ動物園)にパンダ1頭(「ピンピン(平平)」と命名)を贈る。 |
1958 | ・オーストリアの実業家ハイニイ・デンメアがキリン、サイ、カバなどアフリカの大型哺乳類と引き換えに北京動物園からパンダ(「チチ(姫姫)」と命名)を譲り受ける。 ・ロンドン動物園がチチを獲得し、展示がスタートする |
1959 | ・中国がソ連(モスクワ動物園)にパンダ1頭(「アンアン(安安)」と命名)を贈る。 |
1960年代 | ・アメリカの解剖学者ドワイト・D・デーヴィスがジャイアントパンダの内臓を分析し、「クマ科に分類すべきだ」と結論付ける。 |
1961 | ・WWF(世界野生生物基金(現:世界自然保護基金))設立。ロゴマークにジャイアントパンダを採用したことで、パンダが野生動物保護のシンボル的な存在になる。 ※実際にジャイアントパンダの保護活動がスタートするのは1979年以降 |
1963 | ・中国の北京動物園が史上初めて飼育下のパンダの繁殖に成功。 |
1965 | ・中国初のパンダ保護区「王朗自然保護区」設置。 |
1966 | ・チチ(ロンドン動物園)をアンアン(モスクワ動物園)との交配が試みられる。 →1966~69年に何度も2頭の交配が試みられるが、成功にはいたらなかった |
1972 | ・ロンドン動物園のチチが死亡。死体の解剖によってパンダの生態の一部が明らかになる。 ・中国からアメリカに2頭(オスのシンシン(興興)とメスのリンリン(玲玲))が贈られる。それまでにも日本・フランス・西ドイツなどに20頭以上のパンダが贈られた。 ・アメリカの人類学者ヴィンセント・サリッチがロンドン動物園のチチの血液標本を分析し、「ジャイアントパンダはクマの仲間」だという結論を出す。 |
1974 | ・中国からイギリスに新たに2頭(オスのチアチア(佳佳)とメスのチンチン(晶晶))が贈られる。 ・中国で野生のパンダの生息数に関する第1回全国調査を実施。生息数は推計1,000~1,100頭。 |
1975 | ・臥龍自然保護区(チベット高原~四川盆地)を制定。 ・岷山山脈で竹が一斉開花・枯死し、野生のパンダの大量死が発生。 |
1978 | ・中国の北京動物園が史上初めて人口授精によるパンダの繁殖に成功。 |
1979 | ・WWF代表団が訪中し、野生のパンダの研究プロジェクトについて中国政府と協議。 →中国政府とWWFの正式な協力関係が樹立 →中国の国際自然保護連合(IUCN)とワシントン条約への加盟決定 →WWFとの合同パンダプロジェクト開始を約束(研究センターの設立など) |
1980 | ・アメリカのシンシンとリンリンの間で1980~1989年にかけて人口授精も含む交配の試みが何度も行われたが、死産や早逝が続き成功には至らなかった。 |
1983 | ・中国四川省に中国ジャイアントパンダ保護研究センター(CCRCGP)設立。 |
1984 | ・中国からアメリカに営利目的で数カ月の短期貸し出しが行われる。短期貸し出しはその後10年ほど続いた。 |
1985 | ・中国とWWFが合同で野生のパンダの生息数を調査を開始。調査は1988年まで行われた。推計された生息数は「1,120頭±240頭」。 |
1986 | ・中国ジャイアントパンダ保護研究センターで初めてパンダの繁殖に成功。 |
1987 | ・成都ジャイアントパンダ繁殖育成研究基地の開設。 |
1989 | ・「ジャイアントパンダ保護管理計画」で飼育下で生まれたパンダを野生に放つ実験が提唱される。(この提唱はその後の研究で否定的な見方をされるようになった) |
1990年代 | ・DNA配列の解読が進み、ジャイアントパンダはクマの仲間に近いことが裏付けられた。 |
1990 | ・成都ジャイアントパンダ繁殖育成研究基地で、双子の赤ちゃんパンダの同時育成に成功。 |
1991 | ・『ジャイアントパンダ国際血統登録簿』の第1版が完成。 |
1993 | ・アメリカが営利を目的としたジャイアントパンダの短期貸し出しの承認を停止。以降パンダの貸し出しは研究協力体制の構築を目的とした長期貸し出しに移行していく。 |
1996 | ・IUCNの野生生物保全繁殖専門家グループ(CBSG)の協力のもと、野生のパンダに関する大規模な調査研究がスタート。 ・中国国家林業局とWWFの協力で、航空写真や衛星写真も活用した野生のパンダの生息数調査を実施。生息数は推計1,596頭。(第1回~第3回までの調査は生息数を過少に評価しているとする調査研究も存在する) |
1998 | ・中国で「天然林保護プログラム(NFPP)」や「退耕還林プログラム(SLCP)」によって、パンダ保護区での森林伐採が禁止されたり、耕作地を森林に戻したりする取り組みがスタート。 |
2003 | ・雅安碧峰峡ジャイアントパンダ保護研究センター設立。 |
2006 | ・中国ジャイアントパンダ保護研究センター生まれのパンダの野生再導入が試みられる。雄のシアンシアンが野生に放たれたが、1年未満で死亡。 ・中国四川省のジャイアントパンダ保護区群がユネスコ世界自然遺産に認定。 |
2010 | ジャイアントパンダのゲノム(全遺伝情報)の解読完了。 |
1869年:ジャイアントパンダの「発見」
ジャイアントパンダが人間によって「発見」されたのは、今からおよそ160年前の1869年とされています。
「そこまで昔じゃないんだな」と感じた人もいるのではないでしょうか?
ここでいう「発見」とは、ありとあらゆる生物に名前を付けて分類する「分類学」という学問における「発見」を指しています。
分類学的に「新種の生物を発見した」というためには次の2つの条件が必要です。
- 新種の生物の標本(生体でも死体でも可)があること
- 新種の生物に関する論文が学会で発表され、新種の生物であると認められること
パンダの祖先は800万年ほど前から生息していたと言われているくらいなので、発見された1869年にいきなり登場したわけではありません。
おそらく主な生息地である中国の地元の人たちは、1869年よりも前にパンダの姿を見たことがあったのだと思います。
ただ、誰も珍しい動物だとは考えず、とくに大騒ぎすることもなかったのでしょう。
「姿を見た」という目撃情報だけでは、分類学的な「発見」とは言えません。
フランスからキリスト教の布教のために中国にやってきたアルマン・ダヴィド神父は、すぐにパンダの毛皮が見たことのない動物のものだと気づきます。
すそこで毛皮(=標本)を入手し、その標本に関する論文が発表されたことで、その存在が世界に知られることになったのです。
1900年代〜1930年代前半:ハンター達による「パンダ狩り」
ジャイアントパンダが「発見」されてその存在が知れ渡ると、欧米を中心に世界の国々がパンダの標本を得たいと考えるようになりました。
また、当時は珍しい野生動物を「保護する」という考え方は一般的ではなく、むしろ希少な動物を「狩る(銃で撃つ)」ことに価値があると考えられていたそうです。
そこで、様々な国がパンダを狩るための探検隊を組織して、中国に送り込むようになりました。
初期の探検隊はパンダの姿を見ることもできず、目的を果たせずに帰国することが多かったようです。
ですが、次第にパンダの行動範囲や行動パターンを把握して、遂にはパンダ狩りに成功し、多くのパンダがハンターの手に掛かりました。
銃殺されたパンダは各国の博物館に送られ、展示や研究に利用されました。
1930年代後半:生きたパンダの捕獲と動物園での展示
パンダ狩りが成功するようになったことで、ハンター達の「パンダを撃ちたい」欲求や、博物館の「パンダの標本が欲しい」要望がある程度満たされました。
すると今度は、「パンダを生きたまま捕獲したい」「パンダを動物園で飼育・展示」したいというより難易度の高い目標が生まれます。
そして、1936年にルース・ハークネスという女性が世界で初めてパンダを生きたまま捕獲して、アメリカに連れ帰ることに成功したのです。
「スーリン」と名付けられたこの赤ちゃんパンダは、ブルックフィールド動物園で展示が始まるとすぐに人気者になり、多くの見物客が殺到しました。
スーリンの人気ぶりをみた他の動物園はますますパンダを展示したいと思うようになります。
そして、何頭ものパンダが中国で捕獲されて、アメリカやイギリスの動物園で展示されるようになりました。
1940年代〜:中国によるパンダの外交利用
世界の国々がパンダを欲しがる様子を見て、パンダに政治的な価値を見出したのが、パンダの生息地がある中国でした。
そして、パンダの捕獲や国外への持ち出しを中国の管理下に置き、厳しく制限するようになりました。
また、中国から諸外国への「友好の証」としてパンダを贈呈したり、贈呈の見返りを要求したりするようになります。いわゆる「パンダ外交」の始まりです。
最初は友好の証として「贈与」の形が取られることが多かったパンダ外交ですが、次第に金銭を見返りにした短期間のレンタル形式に移行していきました。
しかし、自然保護活動の拡大と並行して営利目的の短期レンタルを禁止する動きが広まり、現在では調査研究を目的とした長期レンタルが主流になっています。
1960年代以降:「野生動物保護」のシンボル的存在へ
1961年に野生動物の保護活動を行う団体である「WWF(世界野生生物基金(現:世界自然保護基金))」が設立されました。
WWFの設立に代表されるように、この時期ごろから希少な野生動物を保護して数を維持したり増やしたりする活動が盛んに行われるようになりました。
そして、ジャイアントパンダは世界中から注目される存在として、WWFのロゴマークのモチーフに選ばれ、野生動物保護活動のシンボル的な存在になったのです。
【日本史】パンダの歴史〜初来日から現在まで〜
※現在編集中です
上野動物園のパンダの歴史
上野動物園に初めてパンダがやってきたのは、1972年のことです。
1972年に中国から来園したカンカンとランランは、上野動物園だけでなく日本にとっても初めてのパンダでした。
上野動物園はその後、ランラン・カンカンも含めて8頭のパンダを中国から迎え、7頭の赤ちゃんパンダも生まれました。
アドベンチャーワールドのパンダの歴史
和歌山にあるアドベンチャーワールドには、1994年に初めてパンダが来園しました。メスの蓉浜とオスの永明です。