ジャイアントパンダといえば、誰もが知っている動物園の人気者ですよね。
パンダの祖先はおよそ800万年前にはすでに生きていたことが、化石の調査から分かっています。
それほど昔から存在していたにもかかわらず、パンダが人間によって「発見」され、世界に知られるようになったのは、今から150年あまり前のことです。
この記事ではまず、パンダがいつ・どこで・誰に発見されたのかという疑問にお答えします。
そのうえで、中国の山奥でひっそり暮らしていたパンダが、動物園の人気者になり、そして野生動物保護のシンボルになるまでの歴史を年表形式で分かりやすく解説します。
パンダはいつ・どこで・誰に発見された?
ジャイアントパンダが発見されたのは1869年の中国四川省。発見したのはフランス人宣教師のアルマン・ダヴィドでした。
場所は、当時「穆坪(ムーピン)」と呼ばれていた、現在の四川省雅安市宝興県のあたりです。
布教活動のために訪れたダヴィドは、現地の住民の家で白黒の珍しい毛皮を目にしました。それがパンダとの最初の出会いでした。
ここでは、パンダ発見のエピソードや、発見者のアルマン・ダヴィドがどんな人物だったのか、そして実はジャイアントパンダより先に見つかっていた「もう1種類のパンダ」の話を紹介します。
1869年3月11日、宣教師ダヴィドが見た白黒の毛皮
1869年3月11日、中国の四川省でキリスト教の宣教師として活動していたアルマン・ダヴィドは、現地の住民の家を訪れました。
その家で、彼は見たこともない白黒の模様の毛皮を見せられ、すぐにそれが未知の動物のものだと気づきます。
そこで現地の猟師に協力してもらい、その動物の毛皮や骨格を手に入れることに成功しました。
ダヴィドは、手に入れた標本をフランス・パリの国立自然史博物館に送り、同じ1869年に新種のクマ「Ursus melanoleucus(白黒のクマ)」として発表しました。
翌1870年、標本を調べた博物館の動物学者アルフォンス・ミルヌ=エドワールは、この動物がクマとは別の仲間だと考えました。
そして新しい属「Ailuropoda」を立てて分類しました。これが、現在の学名Ailuropoda melanoleucaのもとになっています。
おそらく地元の人たちは、1869年よりもずっと前からパンダの姿を見ていたはずです。
それでも1869年が「発見」の年とされるのは、学問の世界で新種と認められるには、次のような条件が必要だからです。
- 標本の存在:その生物が実際に存在することを示す、信頼できる標本(生体、死体、骨格、毛皮など)があること
- 学術的な記載:その生物の特徴を詳しく記述し、既存の種とは異なることを示す論文を発表すること
- 学名の命名:国際的な命名のルールに基づいて、その生物に学名(ラテン語の二名法)を付けること
「見たことのない生き物を目撃した」というだけでは、標本がないため、学問上の「発見」にはなりません。
ジャイアントパンダの場合は、ダヴィドが標本を手に入れて論文で発表し、学名が付けられたことで、はじめて「発見」と認められたのです。
パンダを発見したアルマン・ダヴィドってどんな人?
アルマン・ダヴィドは、カトリックの宣教師であると同時に、優れた博物学者でもありました。
1862年に中国へ渡り、布教活動のかたわら、中国各地で動植物の採集や研究を行っていました。
ジャイアントパンダの発見も、この活動の中で生まれたものです。
| 名前 | アルマン・ダヴィド(Armand David) |
|---|---|
| 生没年 | 1826年〜1900年 |
| 出身地 | フランス |
| 職業 | カトリックの宣教師、博物学者 |
| 主な業績 | 中国の動植物を西洋に紹介。ジャイアントパンダやシフゾウなどを「発見」 |
ダヴィドは、パンダのほかにも、中国の皇帝の庭園で飼われていたシカの仲間「シフゾウ」を西洋に紹介したことでも知られています。
中国の生き物の多くが、彼の手で初めて西洋諸国に知られることになったのです。
【豆知識】レッサーパンダの方が先に発見されていた

実は、ジャイアントパンダよりもレッサーパンダのほうが先に、西洋の学問の世界で「発見」されています。
レッサーパンダが新種として発表されたのは、1825年のことで、ジャイアントパンダよりも40年以上早い「発見」でした。
当初は、先に発見されたレッサーパンダが単に「パンダ」と呼ばれていました。
その後、レッサーパンダと似た特徴を持つ白黒の大きな動物(ジャイアントパンダ)が見つかったため、区別するために「レッサー(小さいほうの)パンダ」と呼ばれるようになりました。
ちなみに現在は、ジャイアントパンダはクマ科、レッサーパンダはレッサーパンダ科として、別のグループに分類されています。
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パンダと人間の世界史年表【1869〜2026年】
パンダが「発見」されると、その存在は急速に知れ渡り、珍しくて不思議で愛くるしい生き物として、世界中から注目を集めるようになりました。
一方で、乱獲や環境破壊による生息数の減少など、パンダの歴史は決して明るい側面ばかりではありません。
ここでは、パンダが発見されてから現在に至るまでの世界の歴史を、年表形式で紹介します。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1825年 | ・新種の動物「パンダ」(のちのレッサーパンダ)が発見される |
| 1869年 | ジャイアントパンダの「発見」 ・フランス人宣教師のアルマン・ダヴィドが、中国・四川の住民の家でパンダの毛皮を目撃。 ・地元の猟師から手に入れた標本をパリに送り、新種のクマとして発表する ※ここから約100年にわたって、「ジャイアントパンダはレッサーパンダの仲間か、クマの仲間か」という論争が続く |
| 1870年 | ・フランスの動物学者ミルヌ=エドワールが、ジャイアントパンダのために新しい属「Ailuropoda」を立てる |
| 1908〜1935年頃 | 「パンダ狩り」の時代 ・ヨーロッパやアメリカで次々とパンダの狩猟と標本獲得を目的とした探検隊が組織され、中国国内を探索 ・探検隊が手に入れた毛皮や骨格の標本は各地の博物館で展示された |
| 1936年 | 「生きているパンダ」に関心が移行 ・アメリカのルース・ハークネスが、野生の赤ちゃんパンダ「スーリン」を生きたまま捕獲し、アメリカに連れ帰ることに成功 |
| 1937年 | ・アメリカのブルックフィールド動物園でスーリンの展示が始まり、大盛況に |
| 1938年 | ・ルース・ハークネスが新たに赤ちゃんパンダ「ダイアナ」(のちに「メイメイ」に改名)を捕獲 ・ブルックフィールド動物園でスーリンとメイメイの同時展示を開始(その後まもなくスーリンが急死) ・アメリカのブロンクス動物園がメスのパンダ「パンドーラ」を獲得 ・アメリカのフロイド・タンジュール・スミスが6頭のパンダを中国から連れ出す(うち1頭は輸送中に死亡。5頭は「ハッピー」「ドーピー」「グランピー」「グランマ」「ベイビー」) ・イギリスのロンドン動物園がグランピー、ドーピー、ベイビーを買い取り、中国の歴代王朝にちなんで「タン(唐)」「サン(宋)」「ミン(明)」に改名 |
| 1941年 | 「パンダ外交」の幕開け ・中国政府からアメリカのブロンクス動物園に「パンディー」と「パンダー」の2頭を寄贈 |
| 1946年 | ・中国がイギリスにパンダの「リェンホー(連合)」を贈る |
| 1957年 | ・中国がソ連(モスクワ動物園)に「ピンピン(平平)」1頭を贈る |
| 1958年 | ・オーストリアの実業家ハイニイ・デンメアが、キリン、サイ、カバなどアフリカの大型哺乳類と、北京動物園のパンダ「チチ(姫姫)」を交換 ・ロンドン動物園がチチを獲得、展示が始まる |
| 1959年 | ・中国がソ連(モスクワ動物園)に「アンアン(安安)」1頭を贈る |
| 1960年代 | クマの仲間説が有力に ・アメリカの解剖学者ドワイト・D・デーヴィスが、ジャイアントパンダの内臓などを分析し、「クマ科に分類すべきだ」と結論付ける |
| 1961年 | 野生動物保護のシンボルへ ・WWF(世界野生生物基金、現在の世界自然保護基金)設立。ロゴマークにジャイアントパンダが採用され、パンダが野生動物保護のシンボル的な存在になる ※実際にWWFがジャイアントパンダの保護活動を始めるのは1979年以降 |
| 1963年 | ・北京動物園が、世界で初めて飼育下のパンダの繁殖に成功 ・臥龍自然保護区が設立される(1975年に大幅に拡大) |
| 1965年 | ・中国初期のパンダ保護区のひとつ「王朗自然保護区」が設置される |
| 1972年 | パンダ外交の本格化 ・中国からアメリカにオスの「シンシン」とメスの「リンリン」の2頭、日本に「カンカン」と「ランラン」の2頭が贈られる |
| 1974〜1977年 | ・中国で、野生のパンダの生息数を調べる第1回全国調査を実施(2,459頭) |
| 1975年 | ・岷山山脈で竹が一斉に開花して枯れ、野生のパンダが大量に死ぬ |
| 1978年 | ・北京動物園が、世界で初めて人工授精によるパンダの繁殖に成功 |
| 1979年 | 保護活動の本格化 ・WWFの代表団が中国を訪れ、野生のパンダの研究プロジェクトについて中国政府と協議 |
| 1981年 | ・中国がワシントン条約に加盟 |
| 1983年 | ・四川省に中国ジャイアントパンダ保護研究センターが設立される |
| 1984年 | 「贈与」から「貸与」へ ・中国からアメリカに、営利目的で数か月の短期貸し出しが行われる。短期貸し出しは、その後10年ほど続いた |
| 1985〜1988年 | ・中国とWWFの協力で、第2回全国調査を実施(1,114頭)。生息数が10年あまりで半分以下に減ったことが分かる |
| 1986年 | ・中国ジャイアントパンダ保護研究センターで、初めてパンダの繁殖に成功 |
| 1987年 | ・成都ジャイアントパンダ繁育研究基地が開設される |
| 1990年 | ・成都ジャイアントパンダ繁育研究基地で、双子の赤ちゃんパンダの同時育成に成功 |
| 1991年 | ・『ジャイアントパンダ国際血統登録簿』の第1版が完成 |
| 1993年 | レンタル期間の長期化 ・アメリカが、営利目的のパンダの短期貸し出しの承認を停止。以降、研究協力を目的とした長期貸し出しが主流になる |
| 1996年 | ・IUCNの専門家グループの協力のもと、野生のパンダに関する大規模な調査研究がスタート |
| 1998年 | ・中国で「天然林保護プログラム」や「退耕還林プログラム」が始まり、パンダの生息地での森林伐採が禁止されたり、耕作地を森林に戻したりする取り組みが進む |
| 1999〜2003年 | ・第3回全国調査を実施(1,596頭) |
| 2003年 | ・雅安碧峰峡ジャイアントパンダ基地が設立される |
| 2006年 | ・中国ジャイアントパンダ保護研究センター生まれのパンダの野生復帰が試みられ、オスのシアンシアンが野生に放たれたが、1年たたずに死亡 ・四川省のジャイアントパンダ保護区群が、ユネスコの世界自然遺産に登録される |
| 2015年 | ・第4回全国調査(2011〜2014年)の結果発表(1,864頭)。前回より約17%増加 |
| 2016年 | ・国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストで、ジャイアントパンダのランクが「絶滅危惧IB類(EN)」から「絶滅危惧II類(VU)」に引き下げられる |
| 2021年 | ・中国政府も国内のランクを「絶滅危惧II類(VU)」に引き下げる ・「ジャイアントパンダ国家公園」が正式に設立される |
| 2025年 | ・飼育下のパンダが世界全体で808頭になったと発表される(11月) |
| 2026年 | ・日本の上野動物園の双子が中国へ返還され、1972年以来初めて日本のパンダが0頭に(1月) |
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年代別に見るパンダの歴史
ここからは、年表で紹介したできごとを年代ごとに区切って、パンダと人間の関係がどう変わってきたのかを詳しく見ていきます。
年表だけでは見えにくい、それぞれの時代の背景や、人々がパンダに向けていたまなざしの変化にも注目してみてください。
「狩りの対象」から「動物園の人気者」、そして「外交の切り札」から「野生動物保護のシンボル」へ。
パンダが置かれた立場は、時代とともに大きく移り変わってきました。その変化は、人間と野生動物との付き合い方そのものの変化でもあります。
1900年代〜1930年代前半:ハンターたちによる「パンダ狩り」
ジャイアントパンダが「発見」されてその存在が知れ渡ると、欧米を中心に、世界の国々がパンダの標本を手に入れたいと考えるようになりました。
当時は、珍しい野生動物を「保護する」という考え方は一般的ではなく、むしろ希少な動物を「狩る(銃で撃つ)」ことに価値があると考えられていたそうです。
そこで、さまざまな国がパンダを狩るための探検隊を組織し、中国に送り込むようになりました。
初期の探検隊は、パンダの姿を見ることもできず、目的を果たせずに帰国することがほとんどでした。
ですが、次第にパンダの行動範囲や行動パターンが分かってくると、ついにはパンダ狩りに成功し、多くのパンダがハンターの手にかかりました。
撃たれたパンダの毛皮や骨格は各国の博物館に送られ、展示や研究に使われました。
1930年代後半:生きたパンダの捕獲と動物園での展示
パンダ狩りが成功するようになると、ハンターたちの「パンダを撃ちたい」という欲求や、博物館の「パンダの標本が欲しい」という要望は、ある程度満たされました。
すると今度は、「パンダを生きたまま捕まえたい」「動物園で飼育・展示したい」という、より難しい目標が生まれます。
そして1936年、ルース・ハークネスという女性が、世界で初めてパンダを生きたまま捕獲し、アメリカに連れ帰ることに成功しました。
「スーリン」と名付けられたこの赤ちゃんパンダは、ブルックフィールド動物園で展示が始まるとすぐに人気者になり、多くの見物客が押し寄せました。
スーリンの人気ぶりを見たほかの動物園も、ますますパンダを展示したいと考えるようになります。
こうして何頭ものパンダが中国で捕獲され、アメリカやイギリスの動物園で展示されるようになりました。
1940年代〜:中国によるパンダの外交利用
世界の国々がパンダを欲しがる様子を見て、パンダに政治的な価値を見いだしたのが、パンダの生息地がある中国でした。
中国はパンダの捕獲や国外への持ち出しを厳しく制限するようになり、友好の証としてパンダを外国に贈るようになります。
いわゆる「パンダ外交」の始まりです。1972年に日本の上野動物園にやってきたカンカンとランランも、日中国交正常化を記念して贈られたパンダでした。
最初は友好の証として「贈与」の形が取られていたパンダ外交ですが、1980年代半ばからは、お金を受け取って短期間だけ貸し出す形に変わっていきました。
しかし、自然保護の考え方が広がるにつれて、営利目的の短期貸し出しを禁止する動きが強まり、現在は調査研究を目的とした長期の貸し出しが主流になっています。
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1960年代〜1990年代:「野生動物保護」のシンボル的存在へ
1961年に、野生動物の保護活動を行う団体「WWF(世界野生生物基金、現在の世界自然保護基金)」が設立されました。
このころから、希少な野生動物を保護して数を維持したり増やしたりする活動が、世界中で盛んに行われるようになります。
世界中から注目される存在だったジャイアントパンダは、WWFのロゴマークのモチーフに選ばれ、野生動物保護のシンボル的な存在になりました。
中国国内でも、1960年代から臥龍などにパンダの保護区が作られ始めました。
ですが、1970年代から80年代にかけては、生息地の森林伐採や密猟、竹の一斉開花の影響で、野生のパンダは10年あまりで半分以下に減ってしまいます。
この危機を受けて、1979年には中国政府とWWFの協力関係がスタートし、1980年代には保護研究センターや繁殖基地が次々と作られていきました。
2000年代〜現在:生息数の回復と国家公園
長年の保護活動が実を結び、野生のパンダの生息数は、第3回全国調査の1,596頭から、第4回全国調査では1,864頭まで増えました。
2016年には、IUCNのレッドリストで、ジャイアントパンダのランクが「絶滅危惧IB類(EN)」から「絶滅危惧II類(VU)」に1段階引き下げられました。
2021年には中国政府も国内のランクを引き下げ、同じ年に「ジャイアントパンダ国家公園」が正式に設立されています。
ただし、「絶滅危惧II類」も絶滅のおそれがある種の一つで、パンダが絶滅の危機から完全に抜け出したわけではありません。
生息地が山ごとに分断されていることなど、今も多くの課題が残っています。
一方、動物園や保護研究センターで飼育されているパンダは、2025年11月に808頭まで増えました。
飼育下での繁殖技術が大きく進歩したことも、パンダの歴史の大きな成果の一つです。
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日本のパンダの歴史
日本にパンダが初めてやってきたのは、1972年のことです。
日中国交正常化を記念して、上野動物園にカンカンとランランが贈られ、日本中に空前のパンダブームが巻き起こりました。
その後、上野動物園・アドベンチャーワールド・神戸市立王子動物園の3園を中心に、短期間だけやってきたパンダも含めて歴代47頭のパンダが日本で暮らしました。
ですが、2026年1月に上野動物園の双子シャオシャオ・レイレイが中国へ返還され、日本の動物園からは1972年以来初めてパンダがいなくなっています。
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もっと詳しく知りたい人へ:『パンダが来た道』
この記事の年表の多くは、イギリスの科学ジャーナリスト、ヘンリー・ニコルズの著書『パンダが来た道:人と歩んだ150年』(白水社)をもとにしています。
ダヴィドによる発見から、ハンターたちのパンダ狩り、スーリンの物語、パンダ外交、そして保護と繁殖の取り組みまで、パンダと人間の150年の歩みが、たくさんのエピソードとともに記録された一冊です。
パンダの歴史をもっと深く知りたい人には、ぜひ読んでほしいおすすめの本です。
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まとめ
ジャイアントパンダの歴史を、発見から現在まで紹介しました。
パンダが学問の世界で「発見」されたのは1869年。中国四川省で、フランス人宣教師のアルマン・ダヴィドが白黒の毛皮に出会ったことがきっかけでした。
その後パンダと人間の関係性は、さまざまに移り変わり、やがて動物園の人気者や野生動物保護のシンボルになりました。
乱獲や生息地の破壊で一時は数を大きく減らしましたが、長年の保護活動によって、野生のパンダは少しずつ増えています。
人間の都合に振り回されながらも、たくさんの人に愛されてきたパンダ。150年あまりの歴史を知ると、パンダのことがもっと好きになるはずです。

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